昭和五十六年五月三十日 朝の御理解

 御理解第三十七節 「生きて居る間が修行中じゃ。丁度、学者が年を取っても、眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい。」


 何の道でも極めて行くという事は修行の伴わないという事はありません。とりわけ信心においては、実は此の世でのおかげというよりも、あの世に行っての事の為にこの世があると、ぎりぎりはそれなんですから。
 教祖がおっしゃるように此の世では、いっぱしの修行をさせて頂いてね。いわゆるあの世極楽というか、合楽ではその合楽世界に住むという。
 昨日は敬親会でしたから、そんな事を中心にいろいろ話さして頂いた事でした。此の世でおかげを頂くという事は、もうそれこそまあ人生僅か五十年、五十年間まあ云うならば、百年であるね。本当にあの世でまあ輝かしい御霊の世界、云うなら合楽世界に住まわせて頂く為に、実はこの世があるというのですから、この世はだから修行の場である。でなからなければならんのです。まあこちらで真善美輝くようなおかげを頂くとか、貧争病ない世界に住むとかと、それでよいという事じゃないね。ならまあ真善美に輝くような世界とか、貧争病のない世界というのは、それはどこまでもこの世のものでしょがね。だから、この世のものだけであったら、もうそれだけのおかげ頂いたらそれでいい。修行は要らん事になる。けれども、この世あの世を通して、いやむしろあの世の為にこの世に生を受けたとまあ信心の究極の所言うとそうなるのです。
 ですから、此の世で教祖のおっしゃるように、一生が修行じゃと。もうつういっぱしの、云うならば修行をさせて頂かにゃならん。ならその修行をなら私が金光教の信心に今、合楽で云われて居る表行的な修行からね、心行、家業の行とこう言われるのですから、それをいよいよ十全たらしめる為の修行というのは、どういう事かというと、結局私は思うのにおかげをいわゆる、日参、教聴、心行、家業の行だと思うですね。
 これが身に付かねば駄目ですばい、合楽では。日参、教聴、心行、家業の行。その内容がね、いよいよ勿論深いものになっていく事は勿論です。云うならば、今日もおかげを頂かんならんから、又いろんな苦しい事、難儀な事があるからまあ一生懸命朝参りでもさせてもらおうと。そういう例えば、少しでも楽になりたいとか、又は難儀から解放されたい、今日もおかげを受けんならんからという信心から、もういよいよもう思えば思う程、おかげを受けておる、云うならば、お礼参拝がさせてもらわなければおれないという日参になって行かなければ同じ日参でも。そして教聴である。そして心行である。家業の行である。 そこが出来てからの教聴、心行、家業の行である。信心も云うならば、向こうへ降りたら安心じゃとおっしゃるような御教えがあるますよね。これは一生修行を頂き全うしえと、いう事だと思う。そしてあの世に十分の、云うならば、合楽世界に住めれる力も光りも頂いて私は一生が修行という事はそうだと思う。だから、苦しい苦しいでならお参りせんならんのじゃなくて、もう朝参りが身についてしまう。云うならば、お礼心。もう兎に角おかげの事を思うたら、思わず朝の、朝目が覚める、お参りもせずにはおれないという所までね。おかげ頂かんならから朝参りを始めよう、おかげを頂いた、それで終わりという事になる。
 だから、そのおかげを日々頂く。その本当に喜びそれが朝参りの修行というようなふうになってこなければならんと思うね。それにやっぱり本当にその教えがいよいよ身についてくる楽しみ、喜びがなからなきゃならんと思う。
 昨日、学院に行っとります学院生から初めて田原さんから手紙がまいりました。長々と、あの人はなかなか達筆ですからこんな見事な筆跡でね。あちらの学院の模様をずっと書いてきておりますが、沢山な人の中に修行させて頂く事でございますから、やっぱりさまざまな事がある。けれども、こちらを発たせて頂く時に親先生にお書き下げを頂いたね。それに“頂きますという心”というお書き下げを頂いた。頂きますという心、もうこれでこれに一切を絞って日々合楽と同じ心の状態で修行が出来ますと書いております。
 私は思いますのに、教えというものは、もう一つの事に徹底する事だと思うんです。素晴らしいですね。頂きますという心あらば、あたる事も障る事も無いと。これは、食物の場合なんか言っておられますけれど、これは食物だけの事では無い。日常生活の中の成り行きを尊ぶとか、大切にするとかいう事もよくよく煎じ詰めるとね、頂きますという心なのです。どんな場合であっても頂きますという心。これに絞っておかげを頂いて、云うならば、合楽で修行させて頂いておったような心での状態で学院で修行が出来るとこう言う。こりゃそこの久保山さんじゃないですけれども、日々が今日もどうぞ成り行きを大切にさせて下さい。もう成り行きを成り行きそのものを徹底してこう頂いていかれる。そしてそれが五年たち七年たちしておる中にです。ほっと気付いた事はその事の御教えをシンにして、他の御教えもだんだん自分のものになって行っておる事に驚く。特に我情が無くなり我欲がだんだんなくなっていっておる自分が有り難いという意味の事をいつか言われた事がありますがね。一つの事に徹底するという事なんです修行もそういう修行を、云うならばさせてもらう、ね。それが心行にも家業にもつながってくるのであり、お日参りもつながってくるのである。そこに云うならばまあ云うならば、貧争病のない世界というか、真善美に輝くおかげの世界。そのおかげの世界に入ったら、今度はいよいよもって自分の心は豊かに有り難くなる。これだけは例えば、日参、教聴、心行、家業の行と仰せられるからその日参が有り難うて、本当苦し紛れにお参りしよった時代から有り難うしてお礼参拝さしてもらわずにはおれないという信心になっていく時に、云わば尊い、いよいよ一生が修行、一生の修行を全うする事も出けるでしょう。そして、あの世に持って行く事の為のですかね。成る程この世というのは、あの世の為にあったんだと言うような事がまあ分かってくる事になるのじゃないでしょうか、ね。本当の事を言うたらいろんなあれもお願いせんならん、これもおかげ頂かんならんとこう申しますけれども、その一つ一つが成就しただけでよいという事ではありません。
 勿論、成就のおかげを頂いて、夢にも思わんようなおかげを頂いて、そこから、云うなら神恩報謝の心がいよいよ募り、それが、心行ともなってくるおかげ、それを、合楽では日参、教聴、心行、家業の行といろいろにそれぞれの立場で工夫させてもらわなければならんという訳であります。
 これだけは皆さん、ようく一つまあね、日参、教聴、心行、家業の行、それが本当にやはり有り難く出来る事の為にです。まあ田原さんじゃないけれども、頂きますという心あらばである。一日の中にいろいろな問題がありますけれどもね。そこに落ち込んでしまうではなくてね、それを頂く心をいよいよ本当のものにしていく事の修行。そこにはいよいよ心行も伴うて参ります。又、云うならば家業というか、仕事の中に、云うならば日参なら日参といったような行の中にもですね。生き生きとして日参がいよいよまあ意義のあるというかね、どういう意義かというと、あの世に持って行ける、この世でおかげを頂きさえすれば貧争病のない世界、真善美に輝く世界に住めばよいというのではない。そういうおかげも頂いて、云うならばその、それでやれやれじゃない。そこになら、お礼の信心修行が出来、それが私は一生が修行それは丁度学者が年を取っても、眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいと仰せられるようにね。云わば学問と云うものが身についてくる。いよいよ学徳ともなってくる。その学徳の有り難さというものが、こりゃ限りない、云うならば、その限りない欲望とでも申しましょうかね。私共でもそうです。お徳を受けるという事は限りがないもの。為に私共が一生が修行じゃと。この私は何を極めていくでも、この修行の心が無くなってきて、楽な方へ楽な方へとい、行くようになったらもうそれでおしまいです。確かに一生が修行じゃなからなきゃいけませんね。
どうぞ。